教皇:キリストとの真の関係に心を開き続けることを学ぶ
教皇レオ14世は、8月23日(日)正午、バチカンの広場の巡礼者たちとお告げの祈りを唱えられた。
年間第21主日、教皇は祈りの前の説教で、マタイ福音書中の、「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」(16・15)というイエスの問いかけを観想された。
教皇の説教は以下の通り。
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親愛なる兄弟姉妹の皆様。こんにちは。
今日の主日の福音(マタ16・13-20)は、信仰の旅路を歩むわたしたち一人ひとりに向けられた問いにわたしたちを直面させます。――イエスはわたしにとって本当にいかなるかたか。
福音の記事から、この問いかけが弟子の経験にとってどれほど決定的に重要であるかが理解できます。実際、十二使徒は師であるかたの生活と職務をすでに共有していました。にもかかわらずイエスは、使徒たちがご自身のことを真に知り、神の国の神秘を理解することが当然のことだと考えませんでした。そこでイエスは、人々がご自身についてどういっているかについて問うた後、使徒たちに直接問いかけます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」(マタ16・15)。
兄弟姉妹の皆様。これはすべての時代の弟子、またわたしたち一人ひとりにとって根本的な問いです。実際、信仰は一度かぎりで与えられるものではありません。反対に、わたしたちはつねにキリストのみ顔とその福音を再発見し、その使信の理解を深め、あらためて自分の生活に関する選択を行わなければなりません。それは、わたしたちが自分の告白することと首尾一貫した者となり、自分がすでにすべてを知っているという誘惑や、信仰を単なる習慣にしてしまう誘惑に打ち勝つためです。
わたしたちに日々問いかけられる問い――イエスはわたしにとっていかなるかたか、わたしの人生におけるイエスの存在の意味は何か――は、とくに祈りの中で、また福音を黙想するときに生じます。しかしそれは、兄弟の傷と困窮を目の当たりにしたときや、わたしたちの良心に問いかける人間関係や状況の中でも生じます。要するに、わたしたちは生活の現場の中で、主イエスが重要なことを語り、また行った歴史上の偉人にすぎないのか、それとも、わたしたちを御父の愛へと歩み入らせ、わたしたちの人生とわたしたちが生きる世界を変革するために遣わされた神のキリストであるかを確認することができるのです。
愛する友人の皆様。自分の信念や宗教的な確信に閉じこもらず、キリストとの真の関係に心を開き続けることを学ぼうではありませんか。わたしたちは時として、キリスト教信仰に関して、「伝聞」や決まり文句、たとえ善意によるものであっても人から伝えられたことに満足してしまうことがあります。しかしイエスは、わたしたちが個人的に応答し、イエスを身近に知り、つねに新たな出会いを通じてイエスとの友愛によって自らを深めるようにと招きます。この出会いは、わたしたちが思いもよらない道を歩み、想像していたのとは異なる選択を行うように求めることもありえます。このことはわたしたちの個人的な歩みにも、教会の歩みや司牧的選択にもいえます。司牧的選択において、わたしたちは時として、いつもしてきたのと同じようにすれば十分だと考えることがあるからです。しかし、しばしばこう自問することは重要です。――わたしにとって主はいかなるかたか。わたしは本当に主を知っているか。福音は今日、わたしに何を求めているのか。わたしはどのように歩み、どのような選択をなすべきかと。
御子を通して心のうちで神のみ旨を尋ね求めたおとめマリアに願い求めます。マリアがわたしたちの信仰の歩みをつねに導いてくださいますように。
(カトリック中央協議会訳)