教皇:夏休みに、神のことばを聞き、読み、黙想する時間を
教皇レオ14世は、7月12日(日)、カステルガンドルフォの教皇宮殿前の広場に集った信者たちと正午の祈りを唱えられた。
年間第15主日、教皇は説教で、この日の福音朗読箇所、マタイ福音書の「種を蒔く人のたとえ」(13・1-23)を観想された。
教皇の説教は以下の通り。
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親愛なる兄弟姉妹の皆様。こんにちは。
今日の典礼の中で福音書記者マタイは種を蒔く人のたとえ話をわたしたちに示します(マタ13・1-23参照)。このたとえ話は、神がわたしたちの心にみことばを蒔く際の寛大さと信頼、また神がわたしたちに及ぼす力について述べます。
わたしたちの救いのためにいのちを与えられた、人となられたみことばであるイエスご自身が、御父が世に蒔き続けられる種です。それは、この種が死んで、多くの実を結ぶためです(ヨハ12・24参照)。確かに、イエスは時としてわたしたちのうちに堅く無感覚な土を、またある時は、踏み固められた道端や石だらけの土地や茨の茂みのような不注意な土を見いだします。しかし、イエスが種を受け入れる豊かな土地を見いだす時もあります。すると、他のすべてのことを変えることができる愛の奇跡の炎がともされます。わたしたちが人生の中で確かに経験するとおりです。だから御父は種を蒔くことをやめません。ご自分の愛の力がわたしたちの弱さよりも強いことをご存じだからです(二コリ12・9-10参照)。
聖ヨハネ・クリゾストモは神のことばという「種」に触れながら、こう述べます。「茨や石だらけの土地や道端に種を蒔くことがどうして理に適ったことでありうるのだろうか。種と土地の場合にはそれは理に適わないが、霊魂と教えの場合には、それはほむべきことである」(『マタイ福音書講話』[In Matthaeum homiliae 44, 3])。なぜなら、神の手のうちでは、「石だらけの場所が造り変えられて肥沃な土地となり、道が踏みつけられることも道行く人すべてにさらされることもなしに豊かな土地となり、茨が取り除かれて種が安全な状態に置かれること」が可能となるからです(同[ibid.])。
わたしたちに対する神の寛大さはナイーブなものではなく、知恵に満ちています。神は、時としてわたしたちのだれも気づかない善の可能性をわたしたちのうちに見いだすことができるからです。だから、わたしたち自身よりもわたしたちの心という土地をよく知っておられる主は、わたしたちを――すなわち、ありのままの姿のわたしたちを、また、信仰によって主に身をゆだねるならば日々成長しうるわたしたちを――信じることをやめません。
こうして、神が寛大さと信頼をもって種を蒔くことから、そして、わたしたちが謙遜に進んで種を受け入れることから、わたしたちのうちで聖霊の実が成長し、広がります。聖霊の実とは、聖パウロが教えるとおり、「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラ5・22-23)。現代世界はどれほどこの実を――そして、この実に満たされ、造り変えられることを――必要としていることでしょうか。
それゆえ、とくにこの夏休みの間、神のことばを聞き、読み、黙想する時間をもち、休息と健全な娯楽とともに、沈黙と祈りの意義深い時を過ごすように心がけてください。そして、からだも心も新たにされ、福音のよい知らせをのべ伝える準備ができ、神の国の成長にますます協力できるようになって、ふだんの活動に戻ってください。
そのために、使徒の元后であり福音宣教の星であるマリアがわたしたちを助けてくださいますように。
(カトリック中央協議会訳)