「十字架の道を光の道へと変容する主の復活」教皇、一般謁見で
教皇レオ14世は、11月5日(水)、バチカンの聖ペトロ広場で一般謁見を行われた。
謁見中の「わたしたちの希望、イエス・キリスト」をめぐるカテケーシスで、教皇は「IV.イエスの復活と今日の世界の挑戦 3.日々の生活に希望を与える主の復活」をテーマに講話された。
教皇によるカテケーシスの要旨は以下のとおり。
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親愛なる兄妹姉妹の皆さん
イエスの復活は、遠い昔の出来事に属するのではなく、人類の歴史の他の多くの出来事と同様、すでに伝統の中に根付いています。教会は、復活の主日と毎日のミサの中で、主の復活を今日において記念するよう教えます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ 28,20)という復活された主の約束は、ミサの中で最も完全な形で実現されます。
復活の神秘はキリスト教生活の要であり、他のすべての出来事はそれを中心に回っています。そのため、わたしたちは、いかなる平和主義や感傷主義もなしに、毎日が復活祭であると言えます。それはどういう意味でしょうか。
わたしたちは、時の流れと共に、痛み、苦しみ、悲しみ、そしてそれと交差するように、喜び、驚き、平安といった多くの経験を味わいます。しかし、あらゆる状況を経験しながらも、人の心は満たされた思いと深い幸福を切望しています。
人間の神秘を深く追求した、20世紀の偉大な哲学者、十字架の聖テレサ・ベネディクタ(エディット・シュタイン)は、この充足の絶え間ない探求のダイナミズムをわたしたちに思い出させてくれます。彼女はこう記しています。「人間は、存在という賜物を新たに得ようと常に切望している。瞬間が与えてくれるもの、そして同時に奪っていくものを汲み取るために」(『Essere finito ed Essere eterno. Per una elevazione al senso dell’essere』 Roma 1998, 387)。わたしたちは限界に浸りながらも、それを乗り越えようと努めています。
主の復活の告知は、これまでの歴史の中で響き渡った最も美しく、喜びに満ち、驚きに満ちた知らせです。これこそがまさに「福音」であり、愛の罪に対する勝利、そして、いのちの死に対する勝利を証しするものです。それゆえ、それは、わたしたちの心を不安にする、意味への渇望を満たせる唯一のものです。人間は内なる衝動に突き動かされ、絶えず惹きつけられる無限へと向かいます。いかなる偶発的な現実も人間を満足させることはできません。わたしたちは無限と永遠へと向かいます。
それは、苦しみ、喪失、そして失敗が先んずる、死の経験とは対照的です。死からは「生きている者は誰も逃れることができない」と聖フランシスコは歌います(参照『太陽の賛歌』)。
その朝、主の遺体に香油を塗るために墓へ行った婦人たちが、墓が空であることに気づいた時に、すべては一変します。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」(マタイ2,1-2)、東方からエルサレムへ向かった三博士たちが投げかけたその問いは、復活の朝、婦人たちに語りかけた白い衣を着た謎めいた若者の言葉によって、決定的な答えを得ます。「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」(マルコ16,6)。
あの朝から、今日に至るまで、毎日、イエスは「生きている者」という称号をも持つことになるでしょう。それは『黙示録』でご自身を次のように紹介されている通りです。「わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きている」(参照 黙示録 1,17-18)。
わたしたちの人生はしばしば混乱し、様々な顔を持つ悪、苦しみ、死、またわたしたち一人ひとりに影響を与える出来事など、受け入れがたく、理解できない出来事に満ちているように思われます。しかし、わたしたちはまさにイエスの中に、人生を導く北極星を常に見出せると確信しています。復活の神秘の観想を通して、わたしたちは意味の渇望への答えを見出せます。
脆いわたしたち人間にとって、主の復活のメッセージは、個人的な、あるいは地球規模のレベルで人生が毎日もたらす恐ろしい課題を前に、いたわりといやしを与え、希望を育みます。復活からながめる時、十字架の道は光の道へと変容します。わたしたちは苦しみの後の喜びを味わい、観想し、新たな光の中で復活に先立つすべての段階を再びたどる必要があります。
主の復活は十字架を取り除くのではなく、人類の歴史を変えた驚くべき決闘において十字架に勝利するのです。多くの十字架に苦しむわたしたちの時代もまた、復活の希望の夜明けを希求しています。
キリストの復活は単なる考えや理論ではなく、信仰の基盤となる出来事です。復活されたキリストは、聖霊を通して、このことをわたしたちに繰り返し思い起こさせてくださいます。それは、人類の歴史の水平に光が見えない時でさえ、わたしたちがキリストの証人となるためです。
復活の希望は決して欺きません。主の復活を真に信じることは、キリスト教的希望の優しく勇気ある力によって世界を変えるために、日々の歩みを通して、わたしたち自身の人生を変革することを意味するのです。
