教皇「キリスト教の希望は信頼に満ちた委託から」
教皇レオ14世は、9月17日(水)、バチカンの聖ペトロ広場で一般謁見を行われた。
謁見中の「わたしたちの希望、イエス・キリスト」をめぐるカテケーシスで、教皇はこの日、「III.イエスの過越 7.死『だれもまだ葬られたことのない新しい墓』(ヨハネ19,41)」をテーマに講話を行われた。
教皇によるカテケーシスの要旨は以下のとおり。
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親愛なる兄妹姉妹の皆さん
わたしたちの希望、イエスをめぐるカテケーシスの歩みにおいて、今日は、聖土曜日の神秘を観想しましょう。神の御子は墓に横たわっています。しかし、その「不在」は、虚ろなものではありません。それは待機です。抑えられた充満、闇に保たれた約束です。それは大いなる沈黙の日です。天は沈黙し、地は動きを止めたかに見えても、まさにそこにキリスト教信仰の最も深遠な神秘が成就します。それは、まだ生まれて来なくとも、すでに生きている子を宿す母の胎内のように、意味をはらんだ沈黙です。
十字架から降ろされたイエスの遺体には、大切なものを扱うように、ていねいに包帯が巻かれました。福音記者ヨハネは、イエスが、園の中の「だれもまだ葬られたことのない新しい墓」(ヨハネ19,41)に葬られたと伝えます。何一つ偶然はありません。その庭園は神と人が共に一致していた場所、失われたエデンを思い出させます。そして、一度も使われていないその墓は、これからまだ起こるであろう何かを物語るのです。それは、境界であり、終わりではありません。創造の始め、神は園を造られました。そして今、新たな創造も、また園において始まります。そこでは閉じた墓が、まさに開こうとしています。
聖土曜日は休息の日でもあります。ユダヤ教の律法に従えば、第七の日には働いてはなりません。実際、六日間の創造の後に、神は安息されました(参照 創世記2,2)。今、救いの業を成し遂げた後で、御子も安息されます。それは疲れのためではなく、ご自分の仕事を完了されたからです。屈したからではなく、愛し抜かれたからです。これ以上、何も付け加えることはないからです。この休息は、御業が成し遂げられたしるしであり、なされるべきことが本当に完了したことの確認なのです。それは、主の隠れた現存に満ちた休息です。
わたしたちは立ち止まり休息するのに苦労します。まるで人生がまったく十分でないかのように生きています。わたしたちは生産し、示し、遅れを取らないために走ります。しかし、福音は、立ち止まることを知ることが、われわれが学び取るべき信頼の行為であると教えています。聖土曜日は、人生はわたしたちのすることだけでなく、終えたことに対しどのようにけじめをつけるかにもかかっていると気づかせてくれます。
御父の生ける御言葉であるイエスは、墓の中で沈黙されました。しかし、まさにその沈黙の中で、新しいいのちが動き始めます。地面の中の種のように、あけぼのの前の闇のように。神は時が過ぎるのを恐れません。なぜなら神は待ち望むことの主でもあるからです。こうして、わたしたちの「無駄な」時間、つまり休憩や、空白、不毛な瞬間さえも、復活の胎となり得るのです。受け入れられた沈黙は、新しい御言葉の序言となり得ます。中断された時間は、神に捧げるならば恵みの時となることができるのです。
地の中に葬られたイエスは、すべての空間を独占なさらない神の柔和な御顔です。それは、わたしたちを自由にしておかれるために、わたしたちのするようにさせ、待たれ、身を引かれる神です。それは、すべてが終わったように見える時も、信頼される神です。そしてわたしたちは、その中断された土曜日に、復活を急いではならないと学びます。まず、立ち止まり、沈黙を受け入れ、限界を体験しなくてはなりません。わたしたちは即答や迅速な解決を求めがちです。しかし、神はゆっくりと流れる信頼に満ちた時間の、深い場所で働かれます。葬りの土曜日は、こうして復活という不滅の光の力が湧き出でる胎となるのです。
親愛なる友の皆さん、キリスト教の希望は、喧騒からではなく、愛が住まう、望みに満ちた沈黙から生まれます。それは高揚からではなく、信頼した委託から生まれます。それを教えてくださるのは聖母マリアです。聖母は、この期待、信頼、希望を体現する方です。すべてが動かず、人生が行き止まりの道のように思われる時、聖土曜日を思い出しましょう。神は、墓の中でさえも、最も偉大な驚きを準備しておられます。そして、これまでのありのままを感謝して受け入れることができるならば、まさにその小ささと沈黙の中で、神はご自身の誠実な愛をもって、すべてを新たにしながら、現実を変容することを好まれると、発見することができるでしょう。真の喜びは、抱き続ける望み、忍耐強い信仰、愛のうちに生きたものは必ず永遠のいのちによみがえる、という希望から生まれるのです。
