教皇:イエスのように真理と正義に飢え渇く人類に奉仕する
教皇レオ14世は、3月8日(日)、お告げの祈りの集いを行われた。
四旬節第3主日、教皇は祈りの前に、この日の福音朗読箇所、ヨハネ福音書4章の、イエスとサマリアの女の対話(ヨハネ4・5-42)を取り上げながら、説教を行われた。
教皇の説教は次のとおり。
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親愛なる兄弟姉妹の皆様。こんにちは。
イエスとサマリアの女の対話、生まれつき目の見えない人のいやし、そしてラザロの復活は、キリスト教史の最初の数世紀から、復活祭に洗礼を受け、新しい人生を始める人々の歩みを照らしてきました。今日の主日から朗読されるこれらの偉大な福音書の箇所は、洗礼志願者に対して示されるだけでなく、同時に共同体全体によってあらためて耳を傾けられます。なぜなら、これらの箇所はわたしたちがキリスト者となるための助けとなるからです。あるいは、すでにキリスト者であれば、より真実に喜びをもってキリスト者でいるための助けとなるからです。
実際、イエスはわたしたちの飢えに対する神の答えです。イエスがサマリアの女に示したとおり、イエスとの出会いは一人ひとりの心の奥深くで「永遠のいのちに至る水がわき出る」(ヨハ4・14)ように働きかけます。現代においても、どれだけ多くの人がこの霊的な泉を求めていることでしょうか。若きエティ・ヒレスム(1914-43年)は日記にこう書き記しています。「実際のところ、わたしの心の中には深い井戸がある。そして、神はそこに住んでいる。ときどきわたしもそこにいる。しかしたびたび石や砂利が井戸をふさぎ、神はその下に埋もれてしまう。そのときは、もう一度神を掘り出さなければならない」。親愛なる友人の皆様。心を自由にするために用いる以上によい力の用い方はありません。だから四旬節は恵みの時なのです。四旬節の第三週に歩み入ったわたしたちは、今や歩みを強めることができます。
福音書にはこうも書かれています。「弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた」(ヨハ4・27)。イエスの使命を自分のものとして感じようと努める弟子たちに、師であるかたはこう促さなければなりませんでした。「あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』といっているではないか。わたしはいっておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」(ヨハ4・35)。主は教会に向けて今もいわれます。「目を上げて、神の驚くべきわざを見るがよい」。収穫の四か月前の畑にはほとんど何も見当たりません。しかし、わたしたちに何も見えないときに、恵みはすでに働き始めています。そして実りは収穫される用意を整えています。収穫は豊かです。働き手はもしかすると少ないかもしれません。なぜなら彼らはほかのことに気をとられているからです。しかし、イエスは目をこらします。習慣に従うなら、イエスはサマリアの女をただ無視してよかったはずでした。しかし、イエスは女に話しかけ、その話を聞き、下心ももたず軽蔑もせずに女を尊重しました。
教会の中でどれほど多くの人がこれと同じ感受性をもって受け入れられることを求めていることでしょうか。わたしたちが出会う人々に関心を示すためにこれと同じように時間の感覚を忘れることほどすばらしいことはありません。イエスはすべての人の心の奥深くに手を差し伸べたいという神のみ心を満たされて、食事をすることも忘れました(ヨハ4・34参照)。こうしてサマリアの女は多くの福音宣教者の最初の一人になりました。女のあかしによって、多くの人が、自分たちを軽蔑し、拒絶した村からイエスに会いにやって来ました。そしてこの人々の中にも信仰が清い水のように湧き上がります。
姉妹兄弟の皆様。今日、教会の母であるマリアに願い求めます。わたしたちがイエスとともに、イエスと同じように、真理と正義に飢え渇く人類に奉仕することができますように。今は神殿どうし、「わたしたち」と「他の人々」の間で対立すべき時ではありません。神が求めておられる礼拝する者とは、霊と真理をもって神を礼拝する(ヨハ4・23-24参照)、平和の人です。
(カトリック中央協議会訳)