教皇:「開かれた目によって」キリスト教を生きる
教皇レオ14世は、3月15日(日)、お告げの祈りをバチカンの広場に集った巡礼者と共に唱えられた。
四旬節第四主日、教皇は祈りに先立つ説教で、この日の福音朗読箇所、ヨハネ福音書4章、イエスが生まれつき目の見えない人をいやされるエピソード(ヨハネ9・1-41)を観想された。
教皇の説教は次のとおり。
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親愛なる兄弟姉妹の皆様。こんにちは。
今日の四旬節第四主日の福音は、生まれつきの盲人のいやしについて述べます(ヨハ9・1-41参照)。福音書記者ヨハネはこの象徴的な出来事を通して、救いの神秘についてわたしたちに語ります。わたしたちが暗闇の中におり、人類が闇の中を歩んでいたとき(イザ9・1参照)、神は御子を世の光として遣わし、目の見えない人の目を開き、わたしたちの人生を照らしてくださいました。
預言者たちはメシアが盲人の目を開くことを告げ知らせました(イザ29・18、35・5、詩146・8参照)。イエスご自身、「目の見えない人が見え」(マタ11・5参照)ることを示すことを通じてご自分の使命を信じさせ、「わたしは世の光である」(ヨハ8・12)と述べることによってご自分を示します。実際、わたしたちは皆「生まれつき目の見えない人」だということができます。なぜなら、わたしたちは自分だけではいのちの神秘の深みを見ることができないからです。だから神はイエスにおいて肉となります。それはわたしたちの人間性の泥が神の恵みの息吹によってこねられ、新しい光を受け入れることができるようになるためです。この光が、わたしたちがついに自己と他者と神を真理のうちに見ることを可能にするのです。
何世紀にもわたり次のような考えが広まっており、それが今なお存在することは印象的です。この考えによれば、信仰は一種の「闇への跳躍」であり、思考の放棄です。それゆえ信仰をもつことは「盲目的に」信じることを意味します。しかし、福音はわたしたちにいいます。わたしたちの目はキリストに触れることによって開かれます。そこで宗教指導者たちはいやされた盲人に執拗に尋ねます。「お前の目はどのようにして開いたのか」(ヨハ9・10)。また、「あの者は〔……〕お前の目をどうやって開けたのか」(26節)と。
兄弟姉妹の皆様。わたしたちもキリストの愛によっていやされ、「開かれた目によって」キリスト教を生きるように招かれています。信仰は盲目的な行為でも、理性を放棄することでも、世からわたしたちの目を背けさせるある種の宗教的確信をもつことでもありません。むしろその反対に、信仰は「イエスの視点から、イエスの目をもって見ることでもあります。それはイエスの物の見方にあずかることです」(教皇フランシスコ回勅『信仰の光(2013年6月29日)』18[Lumen fidei])。だから信仰はわたしたちに、イエスがなさったように、とくに他者の苦しみと世の傷に「目を開く」ことを求めます。
とくに、人間の心の多くの問い、また、現代を特徴づける不正と暴力と苦しみの悲惨な状況に関する問いに直面する現代にあって、目覚めた、注意深い、預言的な信仰が必要とされています。この信仰は、世の暗闇に目を開かせ、平和と正義と連帯の取り組みを通じて福音の光を世にもたらします。
おとめマリアにわたしたちのために執り成してくださるように願います。キリストの光がわたしたちの心の目を開き、わたしたちが単純に勇気をもってキリストをあかしすることができますように。
(カトリック中央協議会訳)