教皇:あらゆる状況・環境の中でのべ伝えられるべき福音
教皇レオ14世は、1月25日(日)、バチカンで正午の祈りの集いを持たれた。
典礼暦の年間第3主日、この日はカトリック教会の「神のことばの主日」が記念された。
レオ14世は集いの中で、この記念日について言及。前教皇フランシスコが、7年前、典礼において、また共同体の生活の中で、聖書をめぐる知識と、神のみことばへの関心を高めるために、この主日を制定されたことを思い起こされた。
そして、この重要な意向のために信仰と愛をもって取り組む、すべての人々に、教皇は感謝と励ましを述べられた。
祈りに先立つ説教で、教皇は、マタイ福音書4章のイエスの宣教の開始と、イエスの最初の弟子たちの召し出しが語られる箇所(マタイ4・12-22)を取り上げ、説教を行われた。
教皇の説教は次のとおり。
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親愛なる兄弟姉妹の皆様。こんにちは。
イエスは洗礼を受けた後、宣教を開始し、最初の弟子である、ペトロと呼ばれるシモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネを召し出します(マタ4・12-22参照)。今日の福音のこの場面をよく見ると、わたしたちは二つの問いを発することができます。一つは、イエスが宣教を始めた〈時期〉についての問いであり、もう一つは、宣教し、使徒たちを召し出すために選んだ〈場所〉についての問いです。わたしたちは問います。イエスは〈いつから、またどこで始められたのか〉。
まず、福音書記者は、イエスが「ヨハネが捕らえられたと聞き」(12節)、宣教を始めたとわたしたちに述べます。それゆえ、宣教は適切とは思われないときに始まりました。洗礼者ヨハネは捕らえられたばかりであり、民の指導者たちはメシアに関する知らせを受け入れる用意があまりできていませんでした。それは慎重さを要求する時期でしたが、まさにこうした暗い状況の中でイエスはよい知らせの光をもたらし始めます。「天の国は近づいた」(17節)。
わたしたちの個人生活と教会生活においても、時として内的な抵抗と好ましいと思われない状況のために、福音を告げ知らせ、決断し、選択し、状況を変えるには正しい時ではないと考えることがあります。しかし、不決断や過度な配慮に捕らわれて身動きがとれなくなることのほうが危険です。これに対して、福音は信頼をもって危険を冒すようにわたしたちを招きます。神はどんな時にも働いておられます。そして、たとえわたしたちに準備ができておらず、適切な状況ではないと思われるときにも、主にとってはすべての時がよいのです。
福音書の記事は、イエスが公生活を始めた場所も示してくれます。イエスは「ナザレを離れ、〔……〕カファルナウムに来て住まわれた」(13節)。しかしながらイエスはガリラヤにもとどまります。ガリラヤは何よりもまず異邦人が住む地域でしたが、通商路であったために、交渉と出会いの地でもありました。わたしたちはそこが出自と宗教を異にする人々による多文化的な地域だということができます。こうして福音書はこう述べます。メシアはイスラエルに来ますが、神を告げ知らせるために自らの地の境界を乗り越えます。なぜなら、神はすべての人に近づき、だれをも排除しないからです。神は清い人のためだけに来られたのではなく、さまざまな状況と人間関係の中に混じり合うからです。それゆえ、わたしたちキリスト信者も、自らのうちに閉じこもる誘惑に打ち勝たなければなりません。実際、福音はあらゆる状況、あらゆる環境の中で、のべ伝えられ、実践されなければなりません。それは、福音が人々の間で、文化と諸宗教と諸国民の間で、兄弟愛と平和のパン種となるためです。
兄弟姉妹の皆様。最初の弟子たちと同じように、わたしたちも主の呼びかけを受け入れるように招かれています。わたしたちの生活のすべての時と場所を主は訪れ、その愛で満たしてくださることを知る喜びをもって。このような内的な信頼が与えられることを、また、わたしたちの歩みに同伴してくださることを、おとめマリアに祈ります。
(カトリック中央協議会訳)