教皇:人間への配慮なしに、神に対する真の信仰はない
教皇レオ14世は、1月4日(日)、バチカンでお告げの祈りを巡礼者と共に唱えられた。
降誕節第2主日、教皇はこの日の福音朗読箇所(ヨハネ1,1-18)を取り上げ、説教を行われた。(※日本のカトリック教会の暦では、「主の公現」を祝ったため、同日の福音朗読箇所は、マタイ2,1-12。)
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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降誕祭から2回目の日曜日にあたり、改めて皆さんにお祝いを申し上げたいと思います。明後日、聖ペトロ大聖堂の聖なる扉を閉じることで、希望の聖年が幕を下ろします。そして、わたしたちが今まさに浸っている主の降誕の神秘こそ、わたしたちの希望の土台は神の受肉にあるということを思い出させてくれるのです。
今日の典礼でも示されたヨハネ福音書の冒頭部分は、わたしたちにこのことを思い出させます。「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1,14)。キリスト教的希望は、楽観的な予想や、人間的な計算に基づくものではありません。わたしたちが人生を歩む中で決して独りにならないように、神がわたしたちの歩みを分かち合おうとされた、その選択に基づいているのです。これは神の御業です。神は、イエスにおいて、わたしたちの一人となられ、わたしたちと共にいることを選ばれ、永遠に「わたしたちと共におられる神」であることを望まれました。
イエスが人間の肉の弱さをもっておいでになれられたことは、わたしたちの希望を呼び覚ます一方で、二つの義務、すなわち神に対する義務と、人間に対する義務をわたしたちにもたらします。
神に対する義務、それは、もし神が肉となられたならば、そして、神がわたしたち人間のもろさを住まいとして選ばれたならば、わたしたちは常に、抽象的な教義からではなく、イエスの肉から、神について再考するよう招かれているためです。それゆえに、わたしたちは常に自らの霊性と、信仰の表現の仕方を見つめ直さねばなりません。イエスを通してわたしたちと出会うために来られる神について、考え、祈り、宣べ伝えることができるように、それらが真に具現化されるべきです。神は、わたしたちの上にある完璧な天の世界に住まれる、遠く離れた方ではなく、わたしたちのもろい地上に住む、近くにおられる神、兄弟たちの顔に現れ、毎日の様々な状況の中で自らを啓示される神です。
そして、人間に対しても、わたしたちの努力は同様に一貫しているべきです。神がわたしたちの一人となられたならば、すべての人間は神の反映であり、神の像をその内に宿し、神の光の輝きを中に秘めています。そのために、わたしたちはすべての人の中に侵すことのできない尊厳を認めつつ、互いに愛し合うよう実践しなくてはなりません。
こうして、神の受肉は、連帯を人間関係の基準とし、正義と、平和、最も脆弱な立場の人々の世話と擁護のために、兄弟愛と交わりの促進に向けた具体的な努力をわたしたちに求めます。神は肉となられました。それゆえ、人間の肉への配慮なしに、神に対する真の信仰はありえません。
兄弟姉妹の皆さん、主の降誕の喜びがわたしたちの歩みを励まし、わたしたちがよりいっそう神と隣人に仕える心構えが持てるよう、聖母に願いましょう。