教皇:平和を信じ、イエスや殉教者らの非暴力の道を選ぶ
カトリック教会の典礼暦は、降誕祭の翌日、12月26日、初代教会の助祭、教会の最初の殉教者、聖ステファノを祝った。
教皇レオ14世は、バチカンで行われた正午の祈りの集いで、イエスにおいて啓示された神の愛を反映した、聖ステファノの姿をテーマに説教を行われた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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今日は聖ステファノの「誕生日」です。人は一度だけ生まれるのではないと確信していた初期のキリスト教徒たちは、そのように呼んでいました。殉教は、天国における誕生です。信仰の眼差しは、実際、死の中に闇だけを見ているわけではありません。わたしたちは自ら決めることなくこの世に生まれてきますが、その後、多くの経験の中で、常により意識的に「光へ」向かうように、光を選ぶように、求められていきます。
使徒言行録は、ステファノが殉教に向かう姿を見た者たちが、彼の顔に輝く光と、その言葉に驚いた様子を語っています。「席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた」(使徒言行録6,15)。それは、無関心に歴史から立ち去ることなく、むしろ愛をもってそれに立ち向かう者の顔です。ステファノの言動のすべては、イエスにおいて啓示された神の愛、わたしたちの闇に輝いた光を再現するものでした。
親愛なる皆さん、神の御子がわたしたちの間にお生まれになったことは、わたしたちを神の子としての生き方へと招くものです。それは、ベツレヘムの夜から、マリアや、ヨセフ、羊飼いたちのような謙遜な人々が体験した、一種の惹きつけられる動力によって可能となるのです。
しかし、イエスとイエスのように生きる者たちの美しさは、拒絶を受ける美しさでもあります。まさにその惹きつける力こそが、自分の権力のために恐れを抱く者たち、心にある思いをあらわにする善によって自らの不正を暴かれた者たちの反発を最初から招いたのです(参照 ルカ2,35)。
それでも、今日まで、神の御業に勝る力など存在しません。世界のどこにでも、犠牲を払ってでも正義を選ぶ人々、自分の恐れよりも平和を優先する人々、自分自身にではなく、貧しい人に奉仕する人々が存在します。そうして希望は芽吹き、いかなる状況にも関わらず、祝うことの意味が生まれるのです。
現在の世界が抱える不確実性と苦悩の中で、喜びは不可能に見えるかもしれません。今日、平和を信じ、イエスや殉教者たちの非暴力の道を選んだ人々は、しばしば嘲笑され、公の議論の外に排除され、敵や反対者を助長していると非難されることさえあります。
しかし、キリスト者に敵はいません。たとえ理解し合えなくても、彼らの兄弟姉妹であり続けます。主の降誕の神秘は、わたしたちに喜びをもたらします。それは、兄弟愛をすでに生き、自分のまわりの人々、敵の中にさえも、神の子としての消えることのない尊厳をすでに認めている人々の粘り強さから来る喜びです。
それゆえに、ステファノは、イエスのように、ゆるしながら死にました。それは武器の力よりも真実な力のためでした。それは、すべての人がすでに心に持っている、無償の力です。誰かが隣人をこれまでと違う目で見つめ、関心と認識を示すようになる時、再び目覚め、抗しがたい形で伝わり始める力です。そう、これこそが再生です。それは再び光へと戻ること、これこそがわたしたちにとってのクリスマスなのです。
さあ、マリアに祈り、マリアを観想しましょう。マリアは、いのちに仕え、横暴にはいたわりを、不信には信仰をもって立ち向かうすべての女性たちの中で祝福されています。マリアがわたしたちをその同じ喜びへと導いてくださいますように。その喜びとは、太陽が雪を溶かすように、あらゆる恐れや脅威を溶かす喜びです。