新しい世界の芽であるイエスを受け入れる、教皇、日曜正午の祈り
教皇レオ14世は、12月7日(日)、バチカンでお告げの祈りを巡礼者と共に唱えられた。
待降節第2主日、教皇は祈りの前の説教で、この日の福音朗読箇所、洗礼者ヨハネが「悔い改めよ。天の国は近づいた」と荒れ野で宣べ伝える場面(マタイ3,1-12)を取り上げられた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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待降節第二主日の福音は、神の国の訪れを告げています(参照 マタイ3,1-12)。イエスの前に、先駆者である、洗礼者ヨハネが登場します。洗礼者ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3,1)と言いながら、ユダヤの砂漠で説教をしていました。
「主の祈り」の中で、わたしたちは毎日、「み国が来ますように」と祈ります。これを教えられたのは、イエスご自身です。そして、この祈りによって、わたしたちは、神がわたしたちに用意してくださる新しいものへと目を向け、歴史がこの世の権力者によってすでに記されているわけではないことを知るのです。
わたしたちへの支配ではなく、解放のために、統治に来られた神にお仕えするために、わたしたちの思いと力を捧げましょう。それは「福音」です。わたしたちを励まし、引き寄せる、真の良き知らせです。
確かに、洗礼者ヨハネの口調は厳しいものです。しかし、人々がヨハネの言葉に耳を傾けるのは、その言葉の中に、人生をおろそかにせず、外見ではなく、行いと心の思いに基づいて裁く方との出会いに備えるために、今この時を活かすようにという神の呼びかけを聞くからです。
ヨハネ自身も、神の王国がイエス・キリストを通し、柔和さといつくしみをもって現れることに驚くことでしょう。預言者イザヤは,それを芽にたとえています。それは、力と破壊の象徴ではなく、誕生と新しさの象徴です。枯れたかに見えた幹から生え出でる芽の上に、聖霊は賜物を吹きかけ始めます(参照イザヤ書 11,1-10)。わたしたち一人ひとりも、このような驚きを人生で体験した時のことを思い出せるのではないでしょうか。
これは、ちょうど60年前に閉幕した第二バチカン公会議によって、教会が得た経験です。それは、わたしたちが神の王国を受け入れ、奉仕しながら、それに向かって一緒に歩む時、新たにされる経験です。すると、弱く、限界があるように思われていたことが実現するだけでなく、人間には不可能と言われたことが本当になるのです。それは、「狼は小羊と共に宿り豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く」(イザヤ11,6)と預言者イザヤが描くように。
姉妹たち、兄弟たち、世界はこの希望をいかに必要としていることでしょう。神に不可能はありません。神の王国に備えましょう。迎え入れの準備をしましょう。「最も小さき」ナザレのイエスが、導いてくださるでしょう。降誕の夜から十字架上での死の闇の時まで、わたしたちの手に御身を委ねてくださったイエスは、昇る太陽のようにわたしたちの歴史を照らしてくださいます。新しい一日が始まりました。目覚めて、イエスの光の中を歩みましょう。
これこそが、光に満ちた、そして具体的な、待降節の霊性です。街のイルミネーションが、新しい世界の芽であるイエスを受け入れることで、一人ひとりが小さな光となり得ることを思い起こさせてくれますように。信頼のうちに待つ希望の女性、わたしたちの母、マリアがそれを教えてくださいますように。