「御父に子としての信頼を持って祈る」教皇、日曜正午の祈り
教皇レオ14世は、7月27日(日)、お告げの祈りをバチカンの広場の巡礼者と共に唱えられた。
典礼暦の年間第17主日、教皇は集いの説教で、この日の福音朗読箇所、ルカ福音書11章、イエスが弟子たちに「主の祈り」を教える場面(ルカ11,1-13)を取り上げられた。
教皇の説教の要旨は以下のとおり。
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今日の福音では、イエスがご自分の弟子たちに「主の祈り」を教える場面が語られます(参照 ルカ11,1-13)。「主の祈り」はすべてのキリスト者を一つにする祈りです。この祈りを通して、主はわたしたちに、御父に向かって子どものように、単純さ、子としての信頼、大胆さ、愛されているという確信を持って、「アッバ(お父さん)」と呼びかけるように招きます(『カトリック教会のカテキズム』、2778)。
『カトリック教会のカテキズム』は、非常に美しい表現で、これについて、「主の祈りを通して、御父がわたしたちに示されると同時に、わたしたち自身が何者であるかも明らかにされるのです」と述べています(同上2783)。天の御父に信頼をもって祈れば祈るほど、わたしたちは自分たちが愛されている子どもであることを発見し、神の愛の偉大さをよりいっそう知ることができるのです(参照 ローマ8,14-17)。
また、今日の福音は、神の父性の特徴をいくつかの印象的なイメージを通して表現しています。それは、突然の来客をもてなさねばならない友達を助けるために、真夜中に起き出して来る人、あるいは、子どもに良い物を与えるために心を砕く父親の姿です。
これらのイメージは、わたしたちが神に向かって願う時、神は決して背を向けることがないと思い出させるものです。それは、たとえ、わたしたちが過ちや、機会の喪失、失敗の後で、夜遅くに神の家の扉を叩き、わたしたちに応じるために、家で眠っている子どもたちを起こすようなことがあったとしてもです(参照 ルカ11,7)。むしろ、教会という大きな家族において、御父はご自身のあらゆる愛に満ちた態度に、わたしたち一人ひとりを寛大に与らせてくださるのです。
わたしたちが主に祈る時、主はいつもわたしたちに耳を傾けてくださいます。時に、主が理解し難いタイミングと方法で答えてくださることがあるとすれば、それは主がわれわれの理解を超えた、より偉大な叡智と摂理をもって働かれるためです。ですから、今この時も、信頼をもって祈り続けましょう。そうすれば、主の中に光と力を常に見出すことができるでしょう。
「主の祈り」を唱えることで、わたしたちは神の子としての恵みを思い起こすだけでなく、キリストにおける兄弟として互いに愛し合いながら、その賜物にふさわしい者となる努力を表明します。教会のある教父は、それについてこのように記しています。「神を『わたしたちの父』と呼ぶ時、わたしたちは子として振る舞う義務を思い出さねばなりません」(カルタゴの聖キプリアヌス、De dominica Oratione, 11)。
また、別の教父はこのように付け加えています。「残酷で非人間的な心を持ち続けるならば、あなたがたの御父を、あらゆる善の神と呼ぶことはできません。天の御父の善の刻印はもはやあなたがたにはないからです」(聖ヨハネ・クリゾストモ、De angusta porta et in Orationem dominicam, 3)。「父」として神に祈る一方で、他者に厳しく無関心になることはできません。むしろ、神の御顔をわたしたちの顔に鏡のように映し出すために、神の善良さ、忍耐深さ、憐れみによって、自分自身が変えられることが大切です。
親愛なる兄妹姉妹の皆さん、今日の典礼は、祈りと愛の業を通して、神から愛されていると感じると同時に、神がわれわれを愛されるように、わたしたちもまた、快く応じる態度と、慎重さ、相互の思いやりを持って、損得なしに愛するようにと招いています。御父の御顔の優しさを示すために、この呼びかけに答えることができるよう、聖母マリアに願いましょう。