教皇「福音宣教とはイエスとの個人的な出会いを分かち合うこと」
教皇レオ14世は、6月21日(日)正午、バチカンの広場の巡礼者らとお告げの祈りを唱えられた。
年間第12主日、教皇は祈りに先立つ説教で、マタイ福音書(10・26-33)から、「わたしが暗闇であなたがたにいうことを、明るみでいいなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」(同10・27)というイエスの言葉を取り上げ、福音宣教をめぐる考察を行われた。
教皇の説教は以下の通り。
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親愛なる兄弟姉妹の皆様。こんにちは。
今日の典礼の福音(マタ10・26-33)の中で、イエスは弟子たちを宣教へと派遣するにあたり、とりわけ次の勧めを彼らに示します。「わたしが暗闇であなたがたにいうことを、明るみでいいなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」(27節)。
イエスは、わたしたちが「耳打ちされたこと」、すなわち心の秘められたところで聞くことと、わたしたちがすべての人に宣教するように招かれていることを近づけることにより、福音宣教とは何よりもまず、わたしたち一人ひとりにとって独自のものである、イエスとの個人的な出会いを分かち合うことであることを思い起こさせてくれます。
実際、使徒職の力は、技術や道具以上に、わたしたちの中での聖霊の働きと、わたしたちの応答の真正さに基づきます。聖トマス・アクィナスは、説教するとは観想したことを他者に伝えることである(contemplata aliis tradere)と述べました(『神学大全』[Summa Theologiae III, q. 40, a. 1, ad 2(稲垣良典訳、『神学大全35・36』創文社、2009年、58頁)]参照)。
ところで、「観想する」ことを、一部の聖人や隠世修道者や隠修者だけに限られた特別な経験と考えてはなりません。わたしたちは皆、観想を行うことが可能です。日々の務めのただ中にあっても、神の前で静かに過ごす時をもつように努め、神の声に耳を傾け、自分の喜びと悩みを神にゆだね、神とともに自分の人生をあらためて見つめることによって。このことが、わたしたちをますます堅固で自覚的な信仰の人とし、その結果、人生のあらゆる場と状況の中に福音の光を反映させ、福音の価値が理解されず、受け入れられない場所でもそれをあかしすることができる、信頼に足る自由な使徒とするのです。
わたしたちが考察する聖書の記事の記者である聖マタイが福音書を書き送った共同体は、安楽な生活を送ってはいませんでした。彼らは、今日も地上のさまざまな場所にいる多くのキリスト者に起きているのと同じように、敵意と迫害に直面しなければなりませんでした。そして、落胆し、疲れや恐れに屈する大きな誘惑を感じていました。
当時と同じように今日においても、イエスの教えに忠実に従い、イエスのことばをのべ伝えるには労苦が伴います。憎しみには愛をもって、傲慢には柔和をもって、落胆には忍耐をもってこたえるには労苦を要します。そのためわたしたちは自分たちの信仰と宣教をイエスとの深い関係に根ざしたものとしなければなりません(教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び』8[Evangelii gaudium]参照)。このことが、どんな状況にあっても、屈服することなく、イエスの希望と愛と平和のメッセージを伝え続ける力をわたしたちに与えてくれます。世界はこのことを大いに必要としているのです。
おとめマリアの助けによって、わたしたちがそれぞれの召命に従って主イエスの宣教する弟子となることができますように。
(カトリック中央協議会訳)
