教皇:聖書は神が人間に語り続けるための出会いの場
教皇レオ14世は、2月4日(水)、バチカンのパウロ6世ホールで、一般謁見を行われた。
教皇は、「第2バチカン公会議の諸文書」を主題とする謁見中のカテケーシスで、同公会議公文書「『神の啓示に関する教義憲章』(Dei Verbum)」に関する考察の第4回目として、「聖書:人間のことばにおける神のことば」をテーマに講話された。
教皇によるカテケーシスは以下のとおり。
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親愛なる兄弟姉妹の皆様。おはようございます。ようこそおいでくださいました。
わたしたちがこの数週間考察してきた『神の啓示に関する教義憲章』(Dei Verbum)は、教会の生きた聖伝の中で読まれる聖書が、神があらゆる時代の人間に語り続けるための特別な出会いの場であると指摘します。人間は神のことばに耳を傾けることによって、神を知り、愛することができるのです。しかし聖書のテキストは、天上の、超人間的な言語で書かれたものではありません。実際、日々の現実もわたしたちに教えるとおり、異なる言語を話す二人の人は、互いに理解し合うこともなければ、対話に入り、うまく関係を築くこともできません。ある場合には、他者に自分を理解してもらうことが愛の最初の行為となることがあります。そのため神は人間のことばを用いて語ることを選び、そこから、聖霊から霊感を受けたさまざまな著者は聖書のさまざまなテキストを書きました。公会議文書が思い起こさせるとおり、「かつて永遠なる父のみことばが人間の弱さをまとった肉を受け取って人間と同じようなものになったのと同様に、神のことばは人間の言語で表現されて人間のことばと同じようなものにされた」(『神の啓示に関する教義憲章』13[Dei Verbum])のです。それゆえ聖書は、その内容においてのみならず、言語においても、神の人間に対するあわれみ深いへりくだりと、人間に近づきたいという望みを表します。
教会の歴史を通じて、聖書テキストの神的な著者と人間的な著者の関係が研究されてきました。数世紀にわたり、多くの神学者が聖書の神的な霊感を擁護することに関心を注ぎ、人間的な著者を聖霊の受動的な道具にすぎないものとみなすこともありました。近年では、考察は聖書テキストの作成における聖書記者の貢献を再評価するようになりました。そこから公会議文書は、神が聖書のおもな「作者」であると語る一方で、聖書記者を聖書の「真の作者」とも呼んでいます(『神の啓示に関する教義憲章』11参照)。20世紀の洞察力に富む釈義家が述べたとおり、「人間の働きを単なる筆記者の働きにまでおとしめることは、神の働きをたたえることではない」のです。神は決して人間とその可能性を殺すことがありません。
それゆえ、聖書が人間のことばによる神のことばであるなら、この二つの次元の一つをないがしろにしたり否定したりするアプローチは不完全なものとなります。したがって、聖書の正しい解釈は、聖書がその中で発展した歴史的背景や、聖書が用いた文学様式を無視することができません。それどころか、神が用いた人間的な言葉の研究を放棄するなら、聖書の意味に背く、聖書の原理主義的ないし精神主義的な解釈を導くおそれがあります。この原理は神のことばの宣教にも当てはまります。神のことばの宣教が、現実や人間の希望と苦しみとの接触を失うなら、また、人に伝わらず、時代錯誤的な、理解不能な言語を用いるなら、それは効果を失います。教会はいつの時代においても、歴史の中で受肉し、心に届くことができる言語で神のことばをあらためて提示するよう招かれています。教皇フランシスコが次のように思い起こさせたとおりです。「わたしたちが原点に立ち帰ろうとし、福音の本来の新鮮さを取り戻そうとするたびに、新しい手段が生み出され、現代世界にとって新たな意味を豊かに備えたことば、さまざまな表現形態、効果的なしるしなどの、創造的な方法が生み出されます」。
他方で、聖書の神的な起源を無視し、単なる人間的な教えとして、また、「単なる過去についての書物」として純粋に技術的な観点から研究すべきものと理解するような聖書の解釈も、同様に還元主義的です。むしろ聖書は、とくに典礼の場で朗読されるとき、現代の信者に語りかけ、彼らの現在の生活の問題に触れ、歩むべき道と下すべき決断を照らすことをめざしています。このことは、信者が、聖書に霊感を与えたのと同じ聖霊の導きの下に聖書を読み、解釈するときに初めて可能となります(『神の啓示に関する教義憲章』12参照)。
その意味で、聖書は信者の生活と愛を養うために役立ちます。聖アウグスティヌスが次のように思い起こさせるとおりです。「聖書全体を〔……〕自分では理解できたと思っている人はだれでも、聖書を理解することによって、その人が神と隣人に対する二つの愛を建てるところまでいかないとしたら、まだ聖書を理解したとはいえない」。聖書の神的な起源は次のことも思い起こさせます。洗礼を受けた者のあかしにゆだねられた福音は、たとえ生活と現実のあらゆる次元を含んでいても、それらを超越するということです。福音は単なる博愛主義的ないし社会的メッセージに還元しうるものではありません。むしろそれは、神がイエスのうちにわたしたちに与えてくださった完全で永遠のいのちに関する喜ばしい知らせなのです。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。主に感謝しようではありませんか。主はそのいつくしみによって、わたしたちの生活がみことばという不可欠な栄養を欠くことがないようにしてくださるからです。そして祈りたいと思います。わたしたちのことばも、さらに、わたしたちの生活も、そこで語られている神の愛を覆い隠すことがありませんように。
(カトリック中央協議会訳)
