教皇「希望とは生み出すこと」聖年の土曜の謁見最終回で
教皇レオ14世は、12月20日(土)、聖年の巡礼者のために、バチカンの聖ペトロ広場で、週末の謁見を行われた。
謁見中の「希望」をテーマにした聖年のカテケーシスで、教皇は「希望を持つとは、生み出すこと。マリア、わたしたちの希望」をテーマに講話された。
聖書朗読に続く、教皇の講話の要旨は以下のとおり。
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聖書朗読
「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」
(ローマの信徒への手紙 8,22-24)
教皇の講話
親愛なる兄弟姉妹の皆さん
降誕祭が近づくと、わたしたちは、主は近くにおられる、と言うことができます。イエスがいなければ、主が近くにおられるという言い方は、脅威にさえ響くかもしれません。これに対し、預言者たちが直感したように、イエスにおいて、神はいつくしみの胎なのです。幼子イエスは、神がいつくしみの胎を持っておられ、その胎を通して常に生み出しておられることを啓示してくださいます。イエスの中には脅威ではなく、ゆるしがあります。
親愛なる皆さん、今日の謁見は、教皇フランシスコが今年1月から始められた、聖年の土曜日の謁見の最終回となります。聖年は終わりに近づいても、この聖年がわたしたちにもたらした希望は終わりません。わたしたちは希望の巡礼者であり続けましょう。
わたしたちは聖パウロの言葉を聞きました。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」(ローマ8,24)。希望がなければ、わたしたちは死んだ者です。希望によって、わたしたちは光を見出します。希望とは生み出すものです。実際、希望は対神徳、すなわち神の力の一つであり、それゆえに創造します。殺すのではなく、生み出し、そして再生させるのです。これこそ真の強さです。脅かし、殺すのは強さではありません。それは傲慢であり、攻撃的な形の恐れであり、何も生み出さない悪です。神の力は生み出します。それゆえに、この謁見の最終回に皆さんにお伝えしたく思います。希望とは生み出すことなのです。
聖パウロが、ローマの信徒に宛て、記した言葉は、わたしたちを考えさせるものです。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(ローマ8,22)。
これは強い印象を与える言葉です。地球の叫び、貧しい人々の叫びに耳を傾け、それを祈りの中にもたらすことを助けてくれます。
「共にうめく」、すなわち創造とは一つの叫びです。しかし、力ある人々の多くは、この叫びに耳を傾けません。地球の富は、ごくわずかな人々の手の中に、しばしば地球と貧しい人々の叫びを聞きたがらない人々の手の中に、不当に集中しています。
神は創造の恵みをすべての人に向けられ、皆がそれに与れるようにしてくださいました。わたしたちの使命は、盗むことではなく、生み出すことです。信仰において、地球と貧しい人々の苦しみは、産みの苦しみと同じです。神は常に創造され、今も創造され、わたしたちも希望のうちに神と共に創造することができます。歴史は神の手と、神に希望を託す人々の手の中にあります。盗む人々だけでなく、何よりも創造する人々がいるのです。
姉妹の皆さん、兄弟の皆さん、キリスト教の祈りがこれほどにも深くマリアと結ばれているのは、ナザレのマリアの中に、わたしたちと同じ、生み出す者を見るからでしょう。
神はマリアを豊饒な者とされ、子が母親に似るように、マリアに似た容貌を帯びて、わたしたちのもとに来られました。マリアは神の御母であり、わたしたちの御母です。「われらの希望」と、「サルヴェ・レジーナ」は歌います。マリアは御子に似、御子はマリアに似ておられます。そして、わたしたちは、神の御言葉に顔と体と声をもたらした、この御母に似ているのです。わたしたちもマリアに似ています。なぜなら、わたしたちはこの地上に神の御言葉をもたらし、産みの叫びに変えることができるからです。イエスは生まれ続けることを望まれます。わたしたちはイエスに体と声をもたらすことができます。これこそが、被造物が待ち望むこと、生み出すことなのです。
希望とは、生み出すことです。希望とは、この世が神の世界となるのを見ることです。神と、人間、そしてすべての被造物が再び共に歩む世界、園である都、新しいエルサレムとなるのを見ることです。わたしたちの希望であるマリアが、わたしたちの信仰と希望の巡礼をいつも見守ってくださいますように。
