主の降誕2025:教皇レオ14世によるウルビ・エト・オルビ
2025年12月25日、主の降誕の祭日、教皇レオ14世はローマと全世界に向けたメッセージと祝福「ウルビ・エト・オルビ」をおくられた。
主の降誕を祝い、24日の夜半のミサ、そして、25日の日中のミサを捧げられた教皇は、25日正午、聖ペトロ大聖堂の中央バルコニーに立たれた。
ローマはここ数日雨がちな天候が続いていたが、この日も朝から時折雨の降る空模様となった。それにもかかわらず、バチカンの広場と周辺は、地元ローマやイタリアはもとより、世界各国から訪れた巡礼者たちでにぎわった。
レオ14世は、教皇登位後初めてとなる、クリスマスのメッセージを告げられた。
この後、教皇は、イタリア語、フランス語、英語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、ポーランド語、アラブ語、中国語、ラテン語で、降誕祭のお祝いを述べられた。
そして、集いの最後に、教皇はローマと全世界に祝福をおくられた。
教皇レオ14世による2025年度のクリスマス・メッセージは次のとおり。
********
親愛なる兄弟姉妹の皆さん
「主を喜び祝おう。わたしたちの救い主がこの世にお生まれになった。今日、真の平和が天からわたしたちのところに降りて来られた」(主の降誕の夜半のミサの入祭唱)。主の降誕の夜、典礼はこのように歌い、ベツレヘムの知らせが教会に響き渡ります。おとめマリアから生まれた御子は、罪と死からわたしたちを救うために御父から遣わされた主キリストです。御子はわたしたちの平和です。御子は神のいつくしみの愛をもって、憎しみと敵意に打ち勝ったお方です。それゆえに「主の降誕とは、平和の降誕」(大聖レオ、説教26)なのです。
イエスは馬小屋でお生まれになりました。宿屋にはイエスのための場所がなかったからでした。生まれたばかりのイエスを、母マリアは「布でくるんで飼い葉桶に寝かせ」ました(参照 ルカ2,7)。万物を創造された神の御子は受け入れてさえもらえず、そのゆりかごは動物たちのための貧しい飼い葉桶でした。
天も収めきれない、父なる神の永遠の御言葉は、このようにこの世に来ることを選ばれました。愛のために、女性から生まれ、わたしたちの人間性を分かち合うことを望まれました。愛ゆえに、貧しさと拒絶を受け入れられ、見捨てられ疎外された人々と同じ立場をとられました。
イエスの降誕には、その十字架上の死に至るまで、神の御子の全生涯を貫く、根本的な選択がすでに浮かび上がっています。それは、わたしたちに罪の重荷を負わせず、わたしたちのためにご自身がその重荷を負い、引き受けられるという選択です。これは、御子だけが成し得ることでした。しかし同時に、イエスはこれに対し、わたしたちだけができることして、それぞれが自らの責任を担うということを示されました。そうです。わたしたちを、わたしたちなしで創造された神は、わたしたちなしでは、わたしたちを救うことができません(参照 聖アウグスティヌス、説教169、11.13)。すなわち、愛するというわたしたちの自由な意志がなければ、わたしたちを救うことができないのです。愛さない者は救われず、失われます。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません(参照1ヨハネ4,20)。
姉妹、兄弟の皆さん、これが平和への道です。それはすなわち、責任です。わたしたち一人ひとりが、あらゆる面において、他者を非難する代わりに、まず自分の欠点を認め、神にゆるしを願うと同時に、苦しむ人の立場に立ち、より弱い、抑圧された人々と連帯するならば、世界は変わることでしょう。
イエス・キリストは、わたしたちの平和です。それは、まず何よりも、わたしたちを罪から解放してくださるからです。そして、個人間から国際間に至るまでの、あらゆる紛争を克服するために、進むべき道を示してくださるからです。罪から解放された心、ゆるされた心なしには、平和の人、平和の構築者になることはできません。そのために、イエスはベツレヘムでお生まれになり、十字架上で死なれたのです。それは、わたしたちを罪から解放するためでした。イエスは救い主です。その恵みによって、わたしたちそれぞれが、憎しみや、暴力、対立を退け、対話と、平和、和解を実践するために、各自の役割を果たすことができ、また果たさねばなりません。
この祭日、すべてのキリスト者の方々、特に中東で暮らす方々に、温かい、父としてのご挨拶をおくりたいと思います。わたしは初めての司牧訪問で中東の方々にお会いすることを望んでいました。わたしはこれらの人々の不安に耳を傾け、自らを超える権力の動向を前にした彼らの無力感をよく知っています。今日、ベツレヘムで生まれた幼子は、「わたしによって平和を得なさい。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(参照 ヨハネ16,33)と言われるイエス、そのお方です。
レバノン、パレスチナ、イスラエル、シリアのために、正義と平和と安定をイエスに祈りましょう。そして、「正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である」(イザヤ32,17)という、神のこの御言葉に信頼しましょう。
平和の君に、全ヨーロッパ大陸を委ねましょう。キリスト教のルーツと歴史に忠実に、助けを必要とする人々に連帯と受容を示す、共同体的・協力的精神を、これからもヨーロッパに醸し続けてくださいますように。特に苦しむウクライナの人々のために祈りましょう。武器の轟音が止み、当事者らが国際社会の支援のもとに、誠実で率直な、尊重ある対話のための勇気を見出すことができますように。
世界で進行中のあらゆる戦争、特に忘れられた戦争の被害者たちのために、また、不正や、政情不安、宗教的迫害、テロリズムに苦しむすべての人々のために、ベツレヘムの幼子に平和となぐさめを祈りましょう。特にスーダン、南スーダン、マリ、ブルキナファソ、コンゴ民主共和国の兄弟姉妹たちを思い起こしたいと思います。
希望の聖年の最後のこの数日間、人となられた神に、愛するハイチの人々のために祈りましょう。同国であらゆる形の暴力が収まり、平和と和解の道を進むことができますように。
幼子イエスが、ラテンアメリカで政治責任を担う人々に霊的な促しを与えてくださいますように。そして、多くの課題を前に、イデオロギーや党派的な偏見ではなく、共通善のための対話の場がもたらされますように。
平和の君に、ミャンマーに和解の未来を光で照らし出してくださるようにと願いましょう。若い世代に希望を再び与え、ビルマのすべての人々を平和の道へと導き、家も安全も明日の信頼もない人々を見守ってくださいますように。
タイとカンボジアの間に古くからの友好が回復され、当事者同士が和解と平和の努力を続けるよう、主に祈りましょう。
また、猛威を振るった最近の自然災害により深刻な被害を受けた南アジアとオセアニアの人々を主に託しましょう。これらの試練を前に、苦しむ人々の救済におけるわたしたちの共通の努力を確信と共に新たにするよう、皆さんに呼びかけたいと思います。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、夜の闇の中で、「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ1,9)がこの世にやって来られました。しかしこのお方をご自分の「民は受け入れなかった」のです(ヨハネ1,11)。苦しむ人々に対する無関心に負けてはいけません。なぜなら、神はわたしたちの悲惨さに無関心ではないからです。
人となられたイエスは、わたしたちの弱さを自らに引き受けられ、わたしたち一人ひとりと一つになられます。ガザの住民のように、何も持たず、すべてを失った人々と。イエメンの人々のように、飢餓と貧困の犠牲者たちと。故郷から逃れ、未来を他の場所に求めて、地中海を渡る、あるいはアメリカ大陸を横切る、多くの難民や移民たちと。就職のために苦労する多くの若者たちのように、失業中の人々や求職中の人々と。低賃金で働くあまりにも多くの労働者のように、搾取された人々と、刑務所にいて、しばしば非人道的な状況下で生きる人々と。
神の御心には、あらゆる地から上る平和への祈りが届きます。そうした祈りを、ある詩人はこう書いています。
「停戦の平和ではない、
狼と子羊のようなビジョンでもない、
むしろ
昂りがおさまり
深い疲労だけが残った時の心の中のような平和。
[…]
野の花のように
不意に、訪れよ。
野がそれを求めるから、
野生の平和を」。
(イェフダ・アミハイ)
この聖なる日、困窮し、苦しむ兄弟姉妹たちに心を開きましょう。そうすることで、わたしたちは、両手を広げてわたしたちを迎えられ、その神性をわたしたちに開いてくださる幼子イエスに心を開くのです。「言(ことば)は、自分を受け入れた人々に神の子となる資格を与えた」(参照 ヨハネ1,12)。
あと数日で、聖年が終了します。聖なる扉は閉じられても、わたしたちの希望であるキリストは、いつもわたしたちと共におられます。キリストは、わたしたちを神のいのちに導く、常に開かれた扉です。今日、喜びの知らせが告げられました。お生まれになった御子は、人となられた神です。御子は裁くためではなく、救うために来られます。イエスがおいでになるのは、つかの間のためではありません。イエスは、留まり、自らを捧げるために来られます。主において、あらゆる傷はいやされ、あらゆる心は安息と平和を見出します。「主の降誕は、平和の降誕です」。
皆様に平安な聖なる降誕祭を心よりお祈り申し上げます。
