「主の降誕は信仰と愛と希望の祝祭」教皇、降誕祭の夜半のミサで
2025年度の「主の降誕」を祝う夜半のミサが、12月24日、教皇レオ14世によってとり行われた。
降誕祭を迎えるローマは、朝からあいにくの雨となったが、教皇ミサが行われたバチカンの聖ペトロ大聖堂は、世界各地から訪れた熱心な参列者たちでいっぱいとなった。
一方、大聖堂に入りきれなかった人々は、聖ペトロ広場の大型スクリーンを通して儀式を見守った。
ミサの開始前、教皇は大聖堂前を訪れ、雨にも関わらず広場に集った大勢の巡礼者らに、歓迎といたわりの言葉をかけられた。
ミサの冒頭、「カレンダ」の朗唱が、救い主の誕生を告げ知らせた。
教皇は祭壇前のまぐさ桶にかけられた布の覆いを取られ、幼子イエス像を人々の前に示された。
この幼子イエス像のまわりで、民族衣装をまとった世界5大陸を代表する子どもたちによる献花と、教皇による献香が行われた。
ミサの説教で教皇は、人となられた御子、わたしたちに何かを与えるのではなく、ご自身を与えられる神、夜の闇にお生まれになり、わたしたちを闇から贖い出す神を観想。
「救い主を見出すには、上を見上げるのではなく、下を見つめるべきである。神の全能は、幼子の無力さの中に輝いている」と述べられた。
「わたしたちの盲目さを照らすために、人となられた主は、人に対し、世界の創造と共に始まった愛のご計画に従った、人間の真の姿を現すことを望まれた」と語るレオ14世は、過ちの闇がこの神の摂理の真理を覆い隠している限り、「他者や、子どもたち、貧しい人々、外国人のための場所さえ存在しない」というベネディクト16世の言葉(主の降誕・夜半ミサ説教、2012年12月24日)を引用。
「地上に人間のための場所がなければ、神のための場所はない。しかし、人間のための場所があるところには、神のための場所もある。こうして、馬小屋は神殿よりも神聖な場所となり、聖母マリアの胎は新しい契約の箱となった」と話された。
「神は、幼子イエスを通して、世界に新しいいのちを与えられる。それは、すべての人のための、神ご自身のいのちである。それは、あらゆる問題に解決を与える概念ではなく、わたしたちを巻き込む愛の物語である」。
「待ち望む人々に応えて、神は幼子を遣わされ、それが希望の言葉となることを望まれた。貧しい人々の苦しみに対し、無力な者を遣わされ、それが立ち上がる力となるようにと、また、暴力と抑圧に対して、優しい光を灯され、それがこの世のすべての子らを救いで照らすようにと願われた」。
教皇はこのように語られた。
そして、「歪んだ経済が、人間を商品のように扱うように仕向ける一方で、神はわたしたちに似た者となられ、一人ひとりの無限の尊厳を啓示することを願われる。人が隣人を支配するために、神になろうとする時、神はわたしたちをあらゆる隷属から解放するために、人となることを望まれる。わたしたちの歴史を変えるために、この愛だけで十分ではないだろうか」と問われた。
マリアとヨセフが驚きに満ちて幼子を見守るベツレヘムの馬小屋の上で、星空は「天の大軍」(ルカ2,13)となった、と教皇は述べ、「それは武装せず、武装を解かせるものである。なぜなら、それは地上に平和をもたらす、神の栄光を賛美し歌っているからである(参照 ルカ2,14)。実際、キリストの御心には、天と地、創造主と被造物を愛で結ぶ絆が脈打っている」と話された。
ちょうど1年前、前教皇フランシスコが、イエスの誕生はわたしたちの中に「希望が失われた場所に希望をもたらすという恵みと使命」を呼び起こす、なぜなら、「イエスと共に喜びは花開き、イエスと共に人生は変わり、イエスと共にあるならば希望は欺かれないからである」(主の降誕・夜半ミサ説教、2024年12月24日)という言葉と共に、聖年を開幕されたことをレオ14世は思い起こした。
今、聖年が終わりに近づく中、教皇は降誕祭を、受けた賜物を感謝し、それを世界に証しする使命を帯びた、「感謝と使命の時」として示された。
「肉となられた言(ことば)を黙想することは、全教会に新しい真の言葉を呼び起こす」と述べた教皇は、「信仰と愛と希望の祝祭である、主の降誕の喜びを宣言しよう」と呼びかけられた。
そして、「信仰の祝祭であるのは、神がおとめから生まれ、人となられたからである。愛の祝祭であるのは、贖い主なる御子の恵みは、兄弟愛的な献身によって実現されるからである。希望の祝祭であるのは、幼子イエスがわたしたちの中に希望を灯し、わたしたちを平和の使者とされるからである。これらの徳を心に抱くことで、わたしたちは夜を恐れることなく、新しい日の夜明けを迎えることができるだろう」と教皇は説かれた。
ミサの終わりに、教皇は幼きイエス像を腕に抱き、民族衣装の子どもたちと一緒に、大聖堂の側廊に設けられたプレゼピオへと歩み寄られた。
幼きイエス像が助祭によってプレゼピオの中の飼い葉桶に寝かされると、教皇はその前にたたずみ、礼拝を行われた。
